『蒲原神社|蒲原まつりについて』 蒲原神社 宮司 金子隆弘
蒲原神社は「大化の改新」に書かれた日本最古の書物「延喜式」の中の「神名帳」に『越後国蒲原郡総鎮守「青海神社」』として記されています。
「青海神社」は創設以来蒲原の津、蒲原金鉢山に鎮座し、鎌倉時代まで繁栄していました。南北朝時代に入り、南朝方(勤王方)が蒲原の津を根拠地と定め、金鉢山に蒲原津城を築城したので当神社も否応なく南北戦争に巻き込まれてまいりました。その結果、北朝方の勝利をもって和議が成立し、当神社も負け組みとなり、廃城処分にされ、社殿焼却はまぬがれたもの「青海神社」の社名も名のられず、五社の神様を祭っていたことから「五行神社」と名のり細々と潜居していました。
戦国末期、天正10年(1582)に新発田因幡守重家が織田信長と結んで、上杉謙信の死後、その後を継いだ上杉景勝に反旗を翻して、越後の覇権を争った時、重家は上杉の先祖により廃城させられた「青海神社」の生き残りが「五社神社」として金鉢山に潜居していることを知り、その社殿を建設、新社殿に参詣して、戦勝祈願文を奉納し、社領10町歩と、太刀等を寄進、又死期寸前にまで追い込まれていた蒲原津の村々の人々に対しても、重家の厚意による種々の貢献によって村々は復活し又40数社の摂社、末社ももどり、重家のおかげで復興することができました。
江戸時代に入り、新発田藩溝口氏第2代時世、寛永10年(1633)頃、信濃川と阿賀野川の合流したたのを契機に、信濃川東岸地区が急激に欠けし始め、国土が次々に水没してゆきついには金鉢山も水中に姿を没してしまい、神社は、山ノ下下大山の地に避難し「仮遷宮」していた。住民も周辺の村や
町に四散していたが、元禄2年(1689)藩主の指示により、長嶺新田栗の木川右岸の地に「五社神社」の建設を命じ、又四散していた住民の新蒲原への復興を奨励し、翌3年(1690)社殿完成し、蒲原、横越島総鎮守として盛大な遷宮式をとり行い、溝口藩主の保護により又々、復活することが出来たのでした。その後、明治に入り子供の火遊びから社殿を焼失、現在の社殿となり、昭和43年には「蒲原まつり」の俗称が有名になったため「五社神社」から「蒲原神社」へと社名が変わり現在に至っています。又鎌倉時代に畠山六郎重宗が始めたその年の作がらを占う「御託宣」が蒲原まつりのメインとして今も続いています。
「御託宣」は大変よく当たることから明治、大正、昭和の初めに、米の相場師が動き社会問題となり国から中止命令が出る程でした。地域の文化伝統を伝え今も約450店の露店の出店があり近在近郷から、約20万人の人々が訪れます。
『開催にあたって』 長嶺地域コミュニティ協議会 蒲原まつり実行委員会 実行委員長 水 本 孝 夫
今年もまた「蒲原まつり」がやってきました。毎年、20万人以上の見物客(参拝者)で賑わうこのまつりは、それを支える裏方役として官民が一体となり三日間を通じ延べ約1.500人強の方々の協力で成り立っています。
このまつりの特徴は他と違い、神輿の動的なものはなく、露店の並ぶまつりです。かつては露店の出店数が700店ほどありましたが、時代の流れとともに現在では約450店ほどの出店になりました。又、特に近年は、物販店より飲食系の店が多く、そのせいか三日間で出るゴミの量は大変な量です。さらには、見物客が食べた物の容器、箸、串などのゴミが、まつり会場の周辺にも散乱する状況となっています。
私ども、実行委員会ではクリーンな蒲原まつりを目指して、実行委員会及び地元の方々や企業はもとより、最近ではゴミという負の財産をプラスに考え、子供たちの教育に活かそうと、地元の宮浦中学校の生徒さんや、NSGの専門学校の生徒さんにゴミ拾いのお手伝のご協力を頂いています。
又、実行委員会では通称、蒲原横丁で「福祉ふれあい広場」を開催しています。これは小規模福祉作業所の方たちに見物客とふれあって頂き、少しでも労働意欲を持って頂き、さらには生きる意欲を持って頂きたいとの思いで開催しています。一生懸命に作って頂いた手作りの品物や、委託品などの販売をしていますので、是非立ち寄ってお買い物をして頂ければありがたいです。
さらに、まつりをまつりらしくする為に見物客の方々に浴衣(ゆかた)姿でお越し頂こうと、「浴衣まつり」を開催し、福祉ふれあい広場で抽選会を行い素敵なプレゼントを差し上げています。
このように私ども蒲原まつり実行委員会は、伝統あるこの蒲原まつりという文化を次の世代に継承していくとともに、安心安全でクリーンなまつりの実現を通じて地域社会への貢献の一助になればと頑張っています。